中国獅子舞は「駆邪と降福」の象徴として、古代中国社会のとくに封建的農村の生活風俗に大きく影 響を与えた神事であり芸能である。
元来”獅子”は中国本土に棲息しておらず、古代文献や見聞によって描かれた想像動物なのである。朱象賢氏の「見聞偶録」によると『獅子は「天龍九子之一善守門云」とあり、神々の宮殿にいつ天龍が怒って町や村を破壊しないように宮殿の前で守る役目を持つと云われ、天龍の九子のうちの一子である。』という。 それが伝えられるうちに獅子は門の前で家を魔物から守っているものと信じられ、その言い伝えが今現在でも守られ、廟や宮殿その他建造物の前には必ず左右一頭ずつ石造獅子を置いて、「駆邪と降福」を祈っている。そして民俗的に強力な想像上の霊物である獅子が人々の生活をおびやかす悪霊を圧服するという獅子舞を促し育成したのである
獅子舞は清朝の乾隆皇帝の時代に最も盛んであった為、この時代に今日の獅子舞が生まれ、発達 したという説が多い。清朝初期乾隆皇帝が江南地方へ遊休したある晩、帰徳府城で一夜を過ごした。
そこで乾隆皇帝は五色の色彩豊かな聖獣が枕元に現れ、愛嬌を振りまいて立ち去った。そんな夢を見たのである。目を醒ました乾隆皇帝はさっそく都に戻ると、宮中の名匠たちを一堂に集め、夢に見た聖獣の姿、形をそっくりに作らせ、二人の舞手を中に入れ踊らせたのが獅子舞の始まりという。獅子舞をこよなく愛した乾隆皇帝は、軍の士気を高めるためにも、武術のほかに日々獅子舞を訓練させ、朝廷の祭典時には大々的に獅子舞で祝ったという。始めは宮廷内だけであった獅子舞も彼ら将兵が中国各地への転属等で地方の軍人にも伝えられ、やがて民間まで広まった。これが乾隆由来説である。
中国大陸は地図で見る以上に広大である。同じ中国人でも方言によって、全く言葉が通じない国なのである。獅子舞も例にもれず幾種類もある。中国獅子舞をその造型と舞法から大きく分けると、南方獅子舞と北方獅子舞の二種類である。
られてきた。元来北獅の獅子頭は木で作られていたが、シンガポールの黄錦添師父は独自の経験から、南獅と同じように軽くて色彩が鮮やかな張り子にしたところ、北獅の動きがとてもたやすくなり、生き生きとしてきたという。 北獅子舞は繊細な動きもさることながら、玉乗りの曲芸をするところが特徴である。獅頭と獅尾の呼吸の合った二人が玉に乗ってはころがし、シーソー板の上を右から左へところがしていく。また大侠はバク転や宙返りを見せ、獅子との間合いを取り、北獅子の華麗さと大侠の派手さがころよく調和される。これこそが北獅子舞が一級の芸術品といわれる所以なのである。 また注目すべきはお囃子である。北獅子独特な笛や太鼓、大小鑼、との調和で獅子の動きに緩急をつけている。この点がいかにも北国の民族芸能たるところである。 本会の北獅子舞は1979年7月に、シンガポール甘榜格南双獅団の直伝によるものである。その教えを忠実に守り、現在では独自の技を研究し取り入れ、日々動きに磨きをかけている。日本では本会が最初に取り入れたものであり、華僑社会に新しい獅子舞文化を築いている。
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